010海

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酷く、心地の良い低めの甘い声が耳に届いた。人間の声だと思うけれど、何故か動物の鳴き声のようでもあった。それは何処か遠くから聞こえてきたような、耳元で囁かれているような、どっちともつかない距離感で届き、渚は胃の辺りがざわざわとした。

ふと、鼻先に甘い香りが漂ってきた。その香はどんどん鼻を這い上がってきている。
誘われるように、渚は足を踏み出した。

ぱしり。

右手首を掴まれて、渚は顔を振り向ける。掴んだのは玲香だった。顔を顰めて、口を一文字に結んでいる。
渚は我に返り、いつの間にか浅くなっていた呼吸に気づいて深呼吸をした。心臓がドッ、ドッと強く鳴っている。

「行っちゃ駄目だよ」

渚はただ頷く。玲香の静かな夜の海のように穏やかな瞳を見ていると、段々と心が落ち着いていくくのを感じた。

渚の耳に、波の音が届き始める。ウミネコの鳴き声も聞こえて、そういえば海に来ていたと思い出し、それさえも頭から抜け落ちていたということにぞわりとした。

「ありがとう」

渚は玲香に礼を言った。玲香は未だ、渚を離さない。

「何か、声が聞こえて。呼ばれてるような気がしたんだ。そういえば、匂いも、潮の香りとは違ったものがして」

声は少し震えていた。それを認識すると、落ち着いたと思った心が、またざわつき始める。

「渚」

玲香の声が、渚の意識を引き戻した。玲香がぐい、と渚の手首を引っ張り、先ほど渚が行こうとしていた方向とは逆方向に歩き出す。渚は慌てて足を動かした。

「君はもう海に来るな」
「え」
「危ないから」

玲香はむすりとした声で言った。多分、先ほど自分を誘い出した声と香は、幽霊とか妖怪とか、きっとそういう類いのものだったに違いない。玲香の反応から、渚は察した。

「どこに行くんだ?」
「茜と和夏のところに戻る」

嗚呼、そうだ。頑なに泳ごうとしない(水着になろうともしない)玲香とともに、渚は浜辺を散歩していたのだった。折角二人になれたというのに、邪魔をされてしまって残念だ、と渚は密かに思った。

「どうしても海に行く時は、僕を呼んでよね」

玲香の言葉に、渚は思わず笑った。玲香は自分と仲良くなった人に対しては、過保護なきらいがある。

玲香は渚を仲の良い友人として認識している。

それが何だかむず痒くて、嬉しくて、だけれど友人では満足できない自分も居て、渚は気恥ずかしくなった。

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