アルストロメリア赤穂渚編ー11

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そろり。気配を殺し、慎重に廊下を歩く。家の中はすっかり闇に飲み込まれており、何処に何があるか薄らわかる程度にしか見えない。

物にぶつかって音を立ててしまわぬよう壁伝いに進んでいくと、ぼんやりとしたオレンジ色の灯が漏れ出ている部屋を見つけた。
逸る気持ちを抑えながらゆっくり足を進めると、そこは部屋ではなく2階へと上がる階段だった。どうやら、足元を照らすためのライトが常に点いているらしい。

ゆっくりと階段を踏み締めながら2階へ上がっていく。片足に体重をかける度ぎしり、と階段が音を立てた。

十数段登りきると、目の前はすぐ壁であった。左に顔を向けると、カーテンもない木枠の窓があった。少し汚れの目立つガラスを通して、廊下に月の光が差し込めている。

次いで、右側を見る。そちらには奥行きがあって、進んだ先に部屋がありそうだ。
階段とは違い、廊下には明かりがない。月の光があるためぼんやりと空間の輪郭は見えているが、念の為再度壁に手を添える。何かに引っ掛かって転んでしまっても大変だ。誰にも気付かれず目的の部屋に辿りつかなければならない。

慎重に歩みを進めて、目的の部屋に辿りついた。2階には両側に二部屋あるが、どちらが正解かは、不思議と確信していた。迷うことなく向かって左側の部屋のドアノブに手を掛ける。ドアノブを右に回して押すと、ガチャ、と音を立ててドアが開いた。

部屋の中に足を踏み入れ、振り返ってドアをゆっくりと閉める。にやり、と思わず口角が上がった。

やっとここまで来れた。

どきどきと高揚感で心臓が大きく鳴っている。
今夜はあの邪魔な小学生が居ない。力が小さい癖に、ことある事に邪魔をしてくるあの幼い少年。嗚呼、本当に邪魔だった。お前になんて用はないのに。何もしなければ傷つくこともなかったろうに。

こんな奴の何処に、守る価値があるというのか。

布団の中ですやすやと寝息を立てる目的の人物。憎くて仕方のない少年。いつでも人に囲まれて、慕われて、何不自由なく幸せそうな奴。
彼を目にした瞬間、暗い感情が体の奥底から燃え上がってくる。

殺してしまえ。

いつからか、ずっと遠くの方で響いていた声が、今では耳元で聞こえるようになった。最初はその声に抵抗があったけれど、そんなものも当に消え失せた。

嗚呼、嗚呼! やっと、やっとだ!
これで邪魔な奴は消える! 幸せになれるんだ!

全身が歓喜に包まれる。いや、喜ぶのはまだだ。まだ少年は生きている。早く、早く。
荒くなっていく自分の息の音を聞きながら、憎い少年の首に手を伸ばした。

 

 

玲香はハッと目を覚ました。障子へ目を向けると、月明かりが薄く差し込んでいるだけで、まだ辺りは深い夜に包まれている。

嫌な夢を見た。やけに生々しくて、今まさに起こっていることを見せられているかのようだった。どろどろとした暗い感情が身体に纏わり付いて離れない。じっとりと滲んだ汗とともにシャワーで流してしまいたい。とてつもなく、不快だ。玲香自身の感情ではないとわかっているけれど、自分のものだと勘違いしそうだった。

そして、正体不明の誰かの視点で見ていた夢の中には、二段ベッドの下段で寝ている渚が居た。自分に予知能力なんてものはない筈だが、もしかして、もしかするのだろうか。すごく、嫌な予感がする。

枕元に置いていたスマホを手に取って電源ボタンを押すと、時刻が表示される。二時五十四分。こんな時間に電話を掛けたら迷惑だろうか。迷惑だろうな。
けれど、と玲香は体を起こして教えてもらったばかりの連絡先を表示させる。

もし夢の中で自分が入り込んでいた誰かが渚に取り憑いている奴のものだとしたら。今まさに起こっていることを自分が視たのだとしたら。

そう思うと、迷惑だとか、非常識だとか、そんなものはどうでも良い気がした。電話をしてみて、それで何事もなければそれで良い。その時は、素直に謝ろう。眠っていて出られなくても、構わない。ただ、家族も誰も気づかないうちに渚が一人で恐怖に晒されているとしたら。潮音が渚を守るために、一人で戦っているとしたら。

玲香は発信ボタンを押して、スマホを耳に近づけた。プルルルル、と発信音が耳元で響く。どくどくと心臓が大きく鳴っているのがわかる。どうやら自分は焦っているようだった。
それから一分ほど経っても、渚は応答しない。これ以上は、と諦めて電話を切った。スマホを持っていた手を下ろし、ふっと息を吐く。

そういえば、電気も点けないまま電話を掛けていた。そのまま眠りにつく気にもなれなくて、布団から抜け出し部屋の電気を点ける。意味もなく部屋をぼーっと眺めてから、布団の上に座った。

例えば、恐怖で誰かに助けを求めることも思いつかないような状態だったら、玲香からの着信にも気づかないかもしれない。そう考えて、ぞわりとした。心配で胸の辺りがざわざわとして落ち着かない。今夜はこのまま朝まで起きていようか。

玲香は布団の横に置いたままの小説を取った。すっかり目が冴えてしまったから、内容もちゃんと頭の中に入ってくるだろう。ああでもその前に、マナーモードにしておこうと再びスマホを取った。普段はサイレントモードにしているが、もし渚から折り返しが掛かってきた時に気づけるようにする。

設定後、スマホを布団の上に置いて小説を開いた。朝までに読み終わりそうだから、今日の授業はサボって保健室で千田と感想でも語ってみよう、と思案する。

そうしてから少し経って、小説を膝の上に置いて首を後ろに倒した。夢の内容が頭から離れなくて、文字をまともに追えない。

もう一度電話を掛けたら、流石に渚でも怒るだろうか。

玲香は首を戻して、ちらりとスマホを見た。液晶画面は真っ黒なままで、電話が来る気配はない。
あと二、三時間もすれば日が昇る。休日ではないから、高校に行かなければならない。寝た方が良いに、決まっているけれど。

やっぱり、電話してみよう。

玲香はざわざわとする胸の辺りを左手で押さえて深呼吸をした。これで渚が穏やかに眠っていたのであれば、自分がしたことは迷惑極まりない行為で、自分の憂いを払いたいがための自己満足だ。その時は、渚に謝ろう。

ブルルルル。

スマホを手に取った途端、振動が伝わってきて思わず肩を震わせた。まさか、と思い画面を見ると、『赤穂渚』と表示されている。どくん、と心臓が大きく鳴った。受電マークをスライドさせて、スマホを耳に当てる。

「なぎさ」

出来るだけ、優しい声で、ゆっくりと。相手の名前を呼んだ。耳元で息をのむ音が聞こえた。

「……白波」

お互いの呼び方なんて気にする余裕もない。というより、玲香にとっては(そしておそらく、今の渚にとっても)どうでも良かった。
渚は深夜だからか声を潜めていて、その声は微かに震えているように聞こえた。

「電気は点けた?」
「え……い、いや」
「点けて」

霊は決して、明るい場所に入ってこられない訳ではない。けれど、生きている人間の心の持ちようには大きな影響を与える。暗闇の中に居るのでは、恐怖心はどんどん膨らんでしまうだろう。突然目の前に得体の知れない何かが現われるのではないか、背後に何か居るのではないか。音が聞こえれば、ただの生活音であってもやけに耳に入り、恐怖を育てていく。そしてそこに、付け入られる。

「点けるのが、怖い」
「大丈夫だから」
「でも……動き、たくない。俺、俺は、どうすれば」
「渚」

今度はしっかりと、強めに名前を呼んだ。
渚は恐れている。玲香の予想通り、何かが起きているに違いない。怖いのはわかる。下手に動いたらさらに恐ろしいことが起きるのではないかと不安になる。わかるよ。けれど、その状態で夜明けまで過ごさせるわけにもいかない。

「大丈夫だよ。大丈夫」
「……うん」

渚が体を起こしたのか、布が擦れる音がする。荒い息遣いと、おそるおそる足を動かしている様子が耳から伝わってくる。やがてパチン、と照明を点ける音がして、玲香はほっと息を吐いた。すぐ後に、渚もまた息を吐いたことがわかった。

「なんで、電話」

まだ落ち着かないであろう渚は、途切れ途切れに言葉を発した。

「……朝まで喋ろうと思って……?」
「へ?」

まさか渚の部屋で彼を襲おうとする霊視点の夢を見ましたとは言えず絞り出した玲香の答えに、渚は素っ頓狂な声を上げた。
深夜三時にそれは苦しすぎるだろ、と玲香は思わず遠い目をした。

「こんな、時間に」
「…………ごめんなさい」
「――ぶふっ」

耐えきれない、と言ったように渚が噴き出した。

「い、いや、ごめん。その、なんか……ふふ」
「笑うなら思い切り笑ってしまえ」
「怒るなって」
「怒ってない」

と言いつつ、拗ねたような声を出してしまって玲香は眉を寄せた。それからふっと表情を緩める。

「笑えるようならよかった」
「え」
「あ」

渚の驚く声を聞いて、玲香はしまったと思った。これでは渚を心配して電話を掛けたような……いや、電話に出た直後の渚は酷く怯えていたから、それを心配しての発言だということにしよう。大丈夫。玲香は一人でうんうんと頷いた。

渚の問題を解決してあげたい気持ちはあるものの、出来れば自分の能力や取り巻く環境(言わずもがな氷織たちのことだ)がバレないように、さりげなく助けたい。

その願望は既に実現が難しい局面に立っているのだが、玲香は気にしない。何故かバレないという根拠のない自信が溢れているのである。

「……ありがとう」
「こんな時間に電話したのに?」
「かけ直したのは俺だよ」

渚の声に、少しずつ明るさが戻ってきていた。

「朝までコースでいいの?」
「寧ろ、白波は大丈夫なのか? 学校あるのに。……俺は、ありがたいけど」

最後は消え入りそうな声で言った。玲香はふう、と息を吐く。

「甘えて良いって、言った」
「……言って、くれたな」
「あ。最初に電話したの、僕だった。甘えてるの、僕ってことになるな。ごめん」
「どういうことだよ」

くく、と渚が笑う。玲香もまた笑みを漏らした。笑えるなら、きっと大丈夫だ。このまま朝まで喋って、周りのことなんか気にしないようにして。

根本的な解決にはならないが、霊に対抗するには精神状態も重要だ。恐怖や不安といった負の感情は、霊に付け入られやすい。逆に、正の感情は無敵ではないが、多少なりとも霊を退けることが出来る。

「朝まで話すことあるかな。俺と白波って、あまり話したことないのに」
「だからこそ沢山あるんじゃないの」
「確かに。学校行くの、忘れないようにしないと」
「……サボろうかな」
「言質取ったぞ」
「ならないよ、そんなの」

次々と軽口を叩く。電話越しでも、渚の声はとても柔らかくて心地良い。これなら長時間聞き続けても気分は良いな、と玲香は思った。先ほどの弱々しい声より、明るくて、優しくて、包み込むような声ならば、本当に、ずっと聞いていたい。

そのためにも、早く解決しなければならない。渚がもう、怯えなくて良いように。

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