アルストロメリア赤穂渚編ー10

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雨が地面を叩く音は、降り始めた時より強くなっている。そこそこ時間も遅いので、当然だが外も薄暗い。今は本格的に夏に入る前の時期で、段々と日は長くなってきているものの、太陽が雲で覆われてしまえば当然だった。

玲香は窓の外に向けていた頭を渚の方へ戻す。日が落ちていくのと比例して、渚の表情もどんどん暗くなるようだった。

自席に座って、どれくらいの時間が経っただろうか。言外に話したいことがあると言った渚の口からは何の音も溢れない。言葉を探しているのか、吐き出すための言葉がそもそもないのか。もやもやとしたものが渚の内に溜まって爆発でも起こしやしないか少しひやひやする。

「帰る?」

玲香の声が、思いのほか響いた。言葉を投げられた渚は驚いて目を見開き、玲香を凝視している。酷く滑稽な表情だ。

「ごめん……引き留めて」

ついぞ、渚の口からは話したいこととやらが出てこなかった。潮音が話したがっていたことと直結する情報を得るチャンスだと思うけれど、無理に聞き出す気は起きない。
玲香は机の横に引っかけていた鞄を取って立ち上がった。渚を見ると、彼は座ったままばつの悪そうな顔をして床を見つめている。

「帰らないの」
「えっ」

渚はびっくりした表情で顔を上げた。それから、迷うような素振りを見せた後、どこか縋るような目をして玲香を見た。何だか捨てられた子犬みたいだ、と玲香は息を漏らして笑った。渚の柔らかな栗色の髪が、余計にそう思わせるのかもしれない。

「傘持ってる?」
「あ……折りたたみなら」
「僕、忘れたんだ」

渚はきょとん、と目を丸くした。ぱちくりと瞬きをひとつした後、ふっと笑う。ころころと表情を変えて忙しないやつだな、と玲香は思った。

「じゃあ、一緒に帰ろう」

渚の誘いに、玲香は微かに笑みを浮かべて頷いた。

 

二人で校舎を出た頃には小雨程度におさまっていた。雨が強くなるのは本当に少しの間だけだったらしい。

「はい」

隣に立つ渚が黒い折りたたみ傘を広げて、傘の柄を挟んだ左側に玲香を入れた。玲香が渚を見上げると、玲香を見ていたらしい彼とばっちり目が合った。渚は照れ笑いを浮かべて目を逸らす。

「ありがとう」
「あ、ああ。大したことないよ」

玲香が歩き出すと、渚も合わせて足を動かした。渚は何も言わないが、おそらく玲香を家まで送り届けるつもりでいるだろう。そう踏んだ玲香は遠慮なくバス停への道を進む。

「白波さんの家って、学校から近いのか?」
「バス」
「バス停からは?」
「……十分くらい」
「十分? 雨、大丈夫かな。止んでるといいけど」
「迎えを呼んでみるから、大丈夫」
「そっか」

やはり、渚は人が良い。大して仲も良いわけではない、しかも女と相合い傘をして、こうして心配までする。気疲れしないのだろうか、と玲香はぼんやり考えた。
そういえば茜も、周りに気を遣っては疲れたように笑っていたっけ。今では玲香とばかりつるむようになって、そういう顔は見なくなったけれど。

最寄りのバス停まで五分程度歩いたが、その間、あまり会話は続かなかった。玲香が渚の自宅について聞き返した程度だった。渚の家は、高校から歩いて十五分ほどした住宅街にあるらしい。近いところにあるからこの高校にしたんだ、と渚は聞いていないことまで喋った。

バス停に着いて次のバスの時刻を見ると、あと数分後だった。しかし、雨が降っている時は大抵遅れてくるもので、最低でもあと十分は待ちそうだ。

渚はどうやら玲香と一緒にバスを待ってくれるらしく、傘を畳んでバス停の屋根の下に入った。他にバス待ちの人は居らず、玲香と渚が静かに並んで立っているだけだ。
雨が地面や屋根を叩く音と、通り抜けていく車の音。玲香は存外、この雨の日の雰囲気を気に入っていた。

「白波さんってさ」

その静かな雰囲気に溶け込むような声だ。不自然に張ることもない、穏やかで心地の良い柔らかな声。昼間に聞こえてくる、明るくあろうとした声より、余程彼らしいと感じる。

「意外と、話しやすいよな」

玲香は渚を見なかった。ただ、道路の向かい側を走る赤と黄色の傘二本をぼんやりと見つめる。傘の下から覗く少年と少女の顔は無邪気なもので、きらきらとして見えた。

「何それ」
「優しいし」

玲香が右隣の渚を見上げた。渚は玲香と目が合うとはにかんで見せた。あどけない表情はまだ幼さが残っていて、可愛らしいと言える。教室で見た暗い影は鳴りを潜めていた。

「ありがとな」
「……何のことかわからないんだけど」
「この前教室から連れ出してくれたこともそうだし、今も……何も聞かないから」

渚は苦い笑みを浮かべた。

「少し、疲れたんだ」

玲香は何も返さなかった。少し居心地悪く感じ、足元に視線を落とす。

「あのさ」

聞き取れるか聞き取れないかという声に、玲香はつきりと胸の奥が痛んだ。きっと、迷っているのだろう。もしかしたら、自身を悩ませていることについて。玲香に話してみるか、止めようか。
渚は唇を閉ざした。玲香がその顔を盗み見ると、ぎゅっと眉間に皺を寄せて何かを堪えるような表情をしている。

どうしたら良いだろうか。

どうしてここまで頭を悩ませているのか、とは自分でも思う。けれど、何故だかは本当にわからないけれど、玲香は渚の助けになりたいと思っていた。そして、渚を守ろうと小さな体で懸命に戦っているであろう、潮音のことも。

せめていつでも連絡が取れるように出来ないだろうか、とまで考えて、玲香はハッとした。あまりに使う機会がなくて頭から抜け落ちていたが、そういえば、手段はあった。この前、茜とそれを使ったばかりじゃないか。

「ねえ」

声を掛けると、渚が玲香に顔を向けた。その表情は相変わらず、つらいことを我慢しているようだ。
玲香は鞄からスマホを取り出し、渚に見せるように顔の前まで上げて見せる。

「連絡先、教えて」
「え?」
「いつでも、電話して良いから」

困惑している渚に、玲香は安心させようと不器用に笑みを作る。

「話したくなったら、あー、話せなくても人の気配を感じたい時とか……? とにかく、別に、何でも良いし、いつでも良い」

あれ、と玲香はふと思った。これは、端から見れば渚を口説いているようにも見えるのか、と。ああこれは、少し不味いか。悪手だったかもしれない。今すぐ茜に助言を求めたい。あ、他人に助言を求めようとするなんて、昨年から比べて自分はすごく成長している。すごい。氷織は褒めてくれないだろうけど、藤なら褒めてくれるかも。

……ただの現実逃避だ。現実と向き合え、自分。玲香は自身を叱咤した。

「なんで」

ぽつり、と玲香を見て渚が呟いた。玲香は渚と目を合わせた後、気まずげに目を逸らす。

「僕が、そうしたいと思ったから……?」

つい、疑問符がついてしまった。

「……甘えても、良いのかな」

誰に聞くわけでもなく、渚は言った。玲香には、渚が自分に問いかけているようにも聞こえた。

「僕が良いって言ってるのに、迷う必要ないだろ」

玲香は視線を渚に戻して、真っ直ぐに目を合わせて言った。渚は驚いて目を丸くし、やがて力が抜けたように緩く笑みを浮かべる。

「やっぱり、白波さんは優しいよ。……少し、言い方は乱暴だけど」
「ほっとけ」
「これは照れ隠しかな」
「うるさい」

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