アルストロメリア赤穂渚編ー9

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茜に事情を話してから数日経った。夏休みを目前に控えているというのに、未だに潮音と話すことは出来ていない。一ヶ月程度ある夏休みに入る前に、渚の状況を把握して、何かしらの対策を打ちたいところではあるのだが、どうにかできないだろうか。

玲香は自身をじわじわ浸食しようとする焦りを持て余し、顔を歪めた。
氷織には他人のあれこれに首を突っ込むのではないと口を酸っぱくして言われている。玲香も素直にそれに従おうとはするものの、実際怪奇に悩まされている人に出会ってしまうと、どうにも、体が動いてしまう。これはもう、そういう質と言うしかない。

「もう少しで夏休みだね」

隣を歩いている茜が言う。放課後、玲香と茜はともに帰路についていた。空は雲に覆われていて、辺りは薄暗い。今朝の天気予報で夕方から雨が降ると言っていたが、その予報はどうやら当たりそうだ。

「夏休みはイベントが沢山あって楽しみだけど、宿題だけがちょっと嫌なんだよね」
「まあ、皆一緒なんじゃないの」
「そこで、玲香と一緒にお勉強会、というイベントが発生すると一気に楽しみになるんだけどな」

茜がちらりと期待の眼差しを向けるので、玲香は呆気に取られた。こいつ、どんどん露骨になっていく。

「勉強会くらい、いいけど」

茜のあからさまなアピールには驚くが(出会った当時は遠慮がちだったからだ)、特段嫌というわけではない。しかし、玲香の家でとなると氷織の顔が般若に変わり勉強会どころではないため、

「……僕の家じゃなければ」

と、小さな声で付け足した。茜はぱっと顔を輝かせる。

「ありがとう! 私の家でも良いし、図書館でも良いよね。楽しみ」

宿題と言えば、と玲香はふと思い出した。机の中に数学の教科書を忘れてしまった気がする。
歩きながら鞄の中を探すと、思った通り教科書は入っていなかった。明後日の授業までに解いておくように言われた問題がいくつかあって、明日持ち帰れば済むけれど、高校からはまだ大して離れていないので引き返すか迷ってしまう。

「ごめん、教科書忘れたから戻る」

結局、引き返すことに決めた。玲香は立ち止まり、茜に断りを入れる。もう少し歩けば通学に使っているバス停に着くけれど、本数は少なくないので一本くらい逃しても構わない。それより、忘れ物に気づいてもやもやしているのを何とかしてしまいたい。バスに乗ってから気づけば、すんなり諦められただろうに。

「雨降りそうだけど、傘ある?」
「うん。折りたたみがある」

鞄の中には今朝氷織に持たされた折りたたみ傘が入っている。雨が降り出しても問題ない。小雨程度なら、傘がなくても気にはしないけれど。
玲香は茜に軽く手を振って踵を返した。

 

玲香が忘れ物を取りに教室へ戻ると、まだ一人、残っている生徒が居た。ドアを開けた際の音に反応して玲香に顔を向けたその生徒は、(本人としては不本意だろうが)時の人となっている渚であった。

「あ」

渚は玲香の顔を見て、思わずといったように短く声を上げた。玲香は特に何か返すこともなく、渚から目線を外し、自身の席へと足を進めた。

渚の傍に潮音の姿は見えない。保健室での一件以降、力が戻らないのだろうか。それとも、玲香の見えないところで渚を守るために力を使って、玲香の前では姿を現わせないのだろうか。今のところ、渚の周囲で気になること(とはいえ、玲香が把握しているのは学校で授業を受けている時だけだ)は起こっていない。

事も起きず、すべてを把握しているのだろう潮音とも接触出来ないのでは、玲香には為す術がない。渚に憑いている黒い靄を、ただ気の毒そうに顔を微かに歪めて眺めるだけだ。

机の中から教科書を引っ張り出し、鞄の中へと放る。その間も、玲香には渚の視線がびしばしと当てられていた。

玲香が「保健室事件」と密かに呼んでいる出来事以来、渚は玲香に話しかけることもなく、毎日仲の良い友人たちと朗らかな顔を見せていた。時折、何か言いたげな顔を玲香に向けていることもあったようだが、玲香はそれに応えてやれるほど素直な性格でもなかった。

「白波さん」

渚の声はよく通る。低すぎず、高すぎず、聞いていて心地の良い声だと思う。流石演劇部のエースとでも言えば良いのか、玲香は彼の声を好ましいと感じている。

「……何」

玲香は渚に顔を向けて短く返した。本来ならば、ここで「あの日以降、大丈夫か」と気遣うべきなのだろうか。玲香はそっと目を伏せた。茜ならば、渚のことを優しく気遣った上で探りを入れていくのかもしれない、と考えて小さく溜息を吐いた。そんな器用な真似は出来そうにない。

「あ、いや……」

渚は歯切れ悪く、玲香から目を逸らした。俯き加減の表情は、昼間にクラスメイトと楽しそうに話していた彼より随分と暗く見える。

「えっと、あのときは、ありがとう」

渚は玲香に目を向けないまま言った。

「あれから、あまり話さないなと思って」

そりゃそうだ、と玲香はごちた。渚は常に人に囲まれているし、玲香は大抵一人で居るか、茜とともに居る。それについて思うところは特にないが、正反対とも言える自分たちが交わることなんか、ありはしなかった。保健室事件が、異例だったのだ。

それにあれ以来、クラスメイトたちの好奇の目が玲香と渚に向けられた。それは玲香にとって、そしておそらく渚にとっても居心地の良いものではなかったから、さっさと関心から外れたかった。自分からその状況を作り出しておいて、なんだけども。

「話すこと、ある?」

玲香が淡々と返すと、渚は肩を震わせた。このような態度で言葉を返されたことがないのかもしれない。渚の周りには、明るくて社交的な人たちが集まっているように見えるから。

「白波さんにはないかもしれないけど……」

渚は顔を背けたまま右手で頭を掻いた。それから何度か口を開いては閉じるを繰り返す。

おそらくは、誰かに話を聞いてほしいと思っているものの、誰に話して良いか決めあぐねているのだろう。渚という少年は、常に快活でクラスの人気者というやつで、悩みは誰かに相談するよりされることが「似合う」人だ。そんな彼だからこそ、周囲の人間から事故のことを気遣う声を掛けられようと、らしくあろうと努めてしまうだろう。優しい性格故か、何かを恐れてかはわからないけれども。

玲香がふと窓の外に目をやると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。辺りは静まり返っていて、この世界に二人だけが取り残されたようだ。

玲香は仕方がない、と窓際の自分の席に腰をかけた。左肘を机につけて、頬杖をつく。対角線上にある渚の席に目を向けると、彼はぽかんと口を開けて玲香を見ている。

こうして渚と向き合うのは、保健室事件以来だ。

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