アルストロメリア赤穂渚編ー4

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保健室のベッドに渚を寝かせた後、玲香はベッドを遮るカーテンの前の椅子に座り、脳内反省会を繰り広げていた。言うまでもなく、玲香に授業へ戻る気はない。

正直、あれはないだろう。玲香は頭を抱えた。

いくら渚を可哀想に思ったとは言え、あの場で渚を連れ出すなんて、教室中の注目を集めるだけだというのに。さらに、“白波玲香”が渚を気遣い保健室まで連れて行ったのだ。これは噂に尾ひれはひれついて学年中に広まっていくに違いない。何てことだ。自分は気にしないにしても、渚は酷く気にするに決まっている。ただでさえ、渚にとってストレスの多い時期だというのに。

多分、茜も呆れていたことだろう。後で色々と問い詰められるに違いない。

「……あの、白波、さん」

カーテンの向こうから、渚が遠慮がちに玲香を呼んだ。

「何」
「このカーテン、開けてもいいかな」
「……開ければ」

渚の意図がよくわからず、玲香は疑問に思いながらも了承した。
カーテンが開けられ、ベッドから体を起こした渚と目が合う。途端、渚はほっとした表情になった。

「ああ、そういうことか」

玲香は一人納得して頷いた。

「え?」
「何でもない」

何を話すでもなく、二人の間には沈黙が流れる。渚は自身の手元をじっと見ていて、何を考えているのかはわからない。玲香も、渚をあの場から連れ出すことが目的だったために、話すことは何もなかった。

「授業、戻らなくても大丈夫か」
「うん」

玲香が短く返すと、渚は気まずそうに目を泳がせた。

「……ごめん」
「何が」
「いや、その、気を遣わせたみたいで」

ごめん、と渚は小さく繰り返し、

「でも、正直助かった。ありがとう」

力なく笑って礼を言った。よく見ると、渚の目元にはうっすらと隈が出来ている。

「寝たら」
「……眠くないから、大丈夫」
「じゃあ戻る?」

渚は表情に影を落として、手元のタオルケットをぎゅっと握った。
意地悪なことを言ってしまった。玲香は思わず目を伏せた。戻りたくないことくらい、わかりきっているというのに。

「いいよ、寝て」
「いや」
「大丈夫だから」

玲香は椅子から立ち上がり、壁を挟んだ養護教諭のいる部屋へ顔を出す。

「先生、本貸してください」
「……白波さん、保健室を何だと思ってるの?」

呆れた顔をしながらも教室に戻れと叱ることもなく、養護教諭の女性――千田は机の引き出しから一冊の文庫本を取り出し玲香に渡した。

「どうも」

時折保健室のお世話になる玲香は、その度に千田から本を借りるのが恒例となっていた。

きっかけは、高校一年生のある時のこと。体調が悪いわけでもなく、ただ眠りたい気分だったため、玲香は授業をサボって保健室へ行った。その際、たまたま不在だった千田の机の上に置いてあった本が目に入り、気まぐれに手に取った。読み始めてみるとなかなか面白く最後まで一気に読んだ。

そこへ千田が戻り、授業をサボったことや勝手に本を読んだことを叱られると思いきや、本の感想を聞いてきたのである。何でも、周囲に読書をする人が少なく、語れる相手が欲しかったらしい。それで良いのか先生だろ、と思わなくはないが、玲香は千田のそういうところが気に入った。それから二人は読書友だちである。

本を受け取って戻った玲香を迎えたのは、呆れた顔の渚だった。

「まさか、先生から本を借りてくるとは思わなかった」
「秘密」
「ああ、うん……言わないけどさ」

渚は諦めたような顔をして、ぼふっとベッドに倒れた。

「おやすみ」

渚の顔を見ずに言って、玲香は借りた本を開く。小さく笑い声が聞こえてきたが、無視をした。

「ありがとう、白波さん」

どこか安心したような、柔らかな声だった。

少しして、規則正しい寝息が聞こえてくる。眠ったか、と玲香が本から顔を上げて渚の様子を窺うと、渚は穏やかな表情で眠っていた。

“お姉ちゃん……”

ぞわり、と背中に悪寒が走った。耳元ではっきりと聞こえた幼い少年の声。ぎりぎりで堪えたが、危うく反応してしまうところだった。

まさか、声を掛けてくるとは思わなかった。というより、“現世の人間に声を伝えられる”ほどの力はなく、教室で起きたような、物を動かす程度の力しか持っていないと思っていた。

“……ぼくの声、聞こえてるんでしょう”

少年の声を無視し、平常心を保って本に目を戻す。視界に少年のものと思われる足が映ったが、気にしないように努めた。

ねえ、と何度も繰り返される呼びかけが、段々と震えてきた。まさか泣いているのだろうか。けれど、ここで応えてしまったら、また面倒なことに巻き込まれてしまうのだ。氷織にも、幽霊の相手をするものではないと注意されているし、そもそも自分には何も出来ない。何の力もないのだ。だから、諦めてくれ。

“お姉ちゃん!”

読んでいた本を隠すように、少年の顔が視界の横から飛び出してきた。流石に無反応では居られず、玲香はびく、と体を震わせてしまった。

泣いている。

小学生くらいの少年が、眉を吊り上げ頬を赤くし、涙を溢し続けるその目で玲香を縋るように見ていた。

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