アルストロメリア赤穂渚編-3

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七月。玲香が通う高校はあと二週間で夏休みを迎える。

「もう少しで夏休みですね」

玲香の前の席に高校一年生からの友人である少女――紫藤茜が座り、にっこりと笑った。茜の焦げ茶色で肩まで伸びた髪がふわりと揺れる。

「夏祭りも行きたいし、海にも行きたいな」
「いってらっしゃい」
「玲香も行くの!」

玲香が素っ気なく返すと、茜はむっとした表情をした。茜はワイシャツの胸ポケットから一口サイズのチョコレートの包みを取り出し、中からチョコレートを取りだして口に放った。玲香は「そんなところに入れるなよ……」と呆れた顔をする。
玲香の視線に気づいた茜は胸ポケットからチョコレートをもう一つ取り出し、玲香に渡した。

「玲香にもあげる」
「……溶けてそう」
「夏だもん」

玲香は渡されたチョコレートを机の横に掛けている鞄の中に入れた。今はチョコレートを食べる気分ではない。

「食べないの?」
「次の授業が終われば昼休みだよ」
「だからお腹が空いてるのに」

茜は徒に玲香の机上に置いている数学の教科書をぺらりと捲る。

「ね、お祭り行こうよ」
「人が多い」

めげずに茜がまた誘うので、玲香は眉間に皺を寄せて言った。
人が多く集まるところには人以外も集まりやすいものだから、できる限り避けたいのだ。茜は玲香に霊感があることを知っているから、そのこともきっと察していると思うのだが。そもそも、霊感がなかろうと玲香は騒がしい場所が苦手だ。

「去年もそう言って一緒に行けなかったし……一度くらい玲香と一緒にそういうイベントごとを楽しみたいというか」

茜は口をもごもごとさせて言った。おそらく、誘うか誘わないか迷っていたのだろう。玲香の事情や性格を知っていても、欲には勝てなかったらしい。申し訳なさそうにしているが、その目には期待が見え隠れしている。
玲香は溜息を吐いた。どうにも、自分は茜の“お願い”に弱いところがある。

「少しだけなら」
「! ほんと?」
「あまり居たくないから、本当に少しだけ」

祭りには良い思い出がない。玲香は目を伏せて、いつの間にか遠くなっていた記憶を引き寄せる。

幼い頃、楽しそうな雰囲気に誘われて、渋る氷織に我が儘を言って遊びに出かけた時のことだった。
雪女である氷織は、夏には極力外に出ないため、その日は氷織の代わりに藤が付き添ってくれた。今では考えられない程テンションが上がって周りが見えていなかった玲香は、藤の目を盗んで(というより、玲香も藤も気づかないうちに)現世と隠世の境界を越えてしまったのである。

その時は、玲香の性質に気づいた悪戯好きの妖怪が面白がって玲香を引っ張っていっただけであった。しかし、悪意を持った者の仕業であれば、迷い込んだだけでは済まなかったことだろう。
玲香は自分を隠世へ引きずり込んだ妖怪と鬼ごっこで遊んだ後(もちろん、玲香は恐怖を感じていたし、鬼ごっこは現世へ戻してほしいとその妖怪を追いかけただけだ)、満足した妖怪が親切にも現世へ帰してくれた。

藤はと言うと、結果的に現世で玲香を待つのみになってしまったため、後で氷織に大層怒られた。

それからというのもの、玲香は祭りが苦手だ。今では滅多に隠世へ引きずり込まれるなんてことはないけれど、それでも警戒は怠らない。あの時はたまたま運が良かっただけなのだ。自分は妖怪や幽霊を祓えるような力があるわけではない。ただ単に、意思の疎通が出来るだけだ。

「ありがとう、玲香」

茜があまりにも嬉しそうに笑うので、玲香は呆気に取られた。そんなにも祭りに行きたかったのだろうか。しかも、一緒に居れば厄介な幽霊や妖怪を引き寄せる可能性がある自分と。関わり始めてもう一年と少し経つが、相変わらず茜は物好きだ。

「そういえば、さ」

茜は声を潜めて、ちらりと自身の左斜め後ろにちらりと顔を向けた。玲香もつられてそちらを見やると、クラスの半分程度の生徒たちが固まって談笑している。

「赤穂くん、元気そうだね」

生徒の輪の中心に居るのは、赤穂渚という少年だった。

赤穂渚は春休み中に交通事故に遭い、新学期が始まってからもずっと休んでいた。
柔らかい茶色の髪の毛と切れ長の目。そして明るくて社交的な性格は男女関係なく人望を集めている。所謂クラスのムード―メーカーだ。演劇部のエースとも言われ、彼の存在は同じ学年であれば知らない人はいないくらいだ、と茜は言う。もちろんと言うべきか、周囲にあまり関心のない玲香は、渚のことを知らなかったのだが。

そんな彼が交通事故に遭ったというニュースは、学年全体に衝撃を与えた。それから数ヶ月。今日から彼は復活した。

「……元気そう、か」

ぽつり、と玲香は呟いた。

「え?」
「何でもない」

玲香は渚から目を逸らし、きょとんとした表情をしている茜を見つめた。やがて茜は恥ずかしそうに頬を染めて目を泳がせる。

「ど、どうしたの? 玲香」
「……いや」

予鈴が鳴る。会話を楽しんでいた生徒たちは名残惜しそうに自席に戻り始めた。

「夏祭り、いつかなって」
「へ」

茜が素っ頓狂な声を上げた。

「それだけ」

もう何も言うことはないと、玲香は適当に茜へ手を振って見せた。茜は少々不満そうに口を尖らせて、何も言わずに自席へと戻っていった。

数学の男性教師が教室に入ってきて、挨拶をする。授業を始める前に、と夏休み中の宿題について言及するので、ほとんどの生徒たちがうげえ、と苦虫を噛み潰したような顔をした。

玲香はちらり、と廊下側一番前の席に座っている渚を見る。渚は他の生徒たちと同じような表情を自分の顔に貼り付けていた。

変に首を突っ込むものではない。玲香は息を吐いて渚を視界から外した。
幼い頃から妖怪と生活していたり、幽霊を見たり時には話したりもしているけれど、小説等の創作でよく見るような、妖怪退治だとか、除霊だとかを出来るわけではない。

たまに成仏出来ない幽霊から一方的に望みを託されて奔走する時もある。しかし、それは玲香が特別な力を持っているというわけではない。ただ幽霊の話を聞くことが出来て、たまたま実現可能な頼み事であったから、ただ霊の指示通りに行動しただけだ。そして、その結果に満足した幽霊が勝手に成仏する。決して、無理矢理成仏させることも出来ない。取り憑かれてしまったら、氷織や藤たちに除けてもらう。ただそれだけだ。

だから、放っておくのが一番良い。何の力も持たない自分が下手に関わっても、返って拗らせてしまうかもしれない。少し胸の辺りがもやもやする気もするが、仕方のないことだ。

玲香は先ほど休憩時間に見た光景を思い返す。
渚の周りに見えた、黒い靄。それと、渚に寄り添うように立っていた小学生くらいの少年。高校の教室に小学生が居るのは異質だから、すぐに幽霊だと気づいた。
少年は渚と同じく栗色の髪で、顔も渚と似ていた。だから、きっと渚の弟なのだろうと予測がついた。

担任からは、特に今回の事故で渚の家族が亡くなったという話は聞いていない。おそらく、渚から教師に言わないでほしいと頼んだか、もしくは、事故以前に亡くなった弟がずっと渚に憑いているか。

いずれにしても、玲香には渚と関わる気はなかった。同じクラスである以上、一言二言交わす機会はあるかもしれないが、必要以上に関わって渚の弟に見つかってしまったら面倒なことこの上ない。黒い靄がよくないものであることは確かだから、その影響を受けたくはないのだ。

ふう、と息を吐いた時、カシャンと何かが落ちる音がした。
思わず音の方向に目を向けて、玲香は一瞬固まった。
落ちたのは渚のシャープペンのようだ。渚は慌てて床に転がったシャープペンを拾い上げる。その顔は少し、蒼白いように見えた。

「赤穂、大丈夫か」

教師が渚に声を掛けた。

「え、あ、はい。すみません」

シャープペンを落としたくらいで、わざわざ声を掛けなくても良いだろうに。玲香は教室内の渚を気遣うような雰囲気に眉を寄せた。

「つらかったら遠慮なく言うんだぞ。授業でわからない所も多いだろうし、途中でも質問して良いからな」

教師は朗らかに言った。何人かの生徒が「先生やさしー!」と囃し立てる。

「ありがとうございます」

お礼を言う渚は笑みを浮かべている。少し疲れたような表情に見えるが、教師や他の生徒たちは気づいていないようだった。
玲香は茜に目をやった。渚の二つ後ろの席に座っている茜は、どこか居づらそうにしている。この状況をあまりよく思っていないようだ。
同感だ、と玲香は頬杖をついて息を吐き出した。その時だった。

ガシャンッ!

その場に居た全員が、一斉に肩を震わせた。
教師の数メートル横に、教室の壁にかけていた時計が落ちていた。

「え、何……?」

そう呟いたのは誰だったか。堰を切ったように一気に教室内がざわつく。驚いて固まっていた教師がハッとしてパンッと手を叩いた。

「落ち着けー。時計が落ちただけだろうが」
「でも先生、地震も何もなかったのに」
「長いことここに掛けてあるんだから、徐々にってのもあるだろ。騒ぐようなことじゃない」
「先生だって驚いてたくせにー」
「うるせえ」

落ちた時計は教卓の隣に設置している机の上に置かれた。落ちた時の衝撃でガラスにひびが入ったようで、教師はうげ、と声を漏らした。

「壊れちゃったな」
「新しい時計買うの? 私選んでも良い?」
「ばっか。余ってる時計を持ってくる」

教師は溜息を吐いた。

「じゃあ、ま、授業続けるぞ」

何事もなかったように、授業が再開された。

玲香は再度、渚の様子を窺った。シャープペンが落ちた時よりも、顔が蒼白くなっており、体調も良くなさそうだ。渚は先ほどの現象に、心当たりがあるのかもしれない。
渚が口元を右手で押さえ、ぎゅっと目を瞑る。今にも吐いてしまいそうに見えた。渚の傍に居る少年が、泣きそうな顔をして渚の背中を撫でている。

玲香は逡巡した後、深く溜息を吐く。耳元で氷織の声が聞こえてきた気がした。「このお人好し」。

「先生」

普段ほとんど発言をしない玲香が声を上げたためか、振り返って己を呼んだ生徒が玲香だとわかった教師は目を丸くした。他の生徒たちも興味津々に玲香を見ている。

「えっと……白波。どうした?」
「赤穂渚くんが具合悪そうなので」

立ち上がって、教室の前へ歩く。教師は戸惑いが隠せず狼狽えている。扱いづらいことで有名な玲香の突然の行動であれば、当然と言えば当然なのかもしれない。玲香は他人事のように思った。
玲香は教師の目の前で立ち止まる。

「保健室連れて行きます」
「え、あ、ああ……頼んだ」

教師が頷いたことを確認し、玲香は渚の席まで向かう。渚の背中を撫で続けている少年のことは視界に入れないように努めて(どうしても映ってしまうが、気にしないようにした)、渚の前に立つ。

渚は困惑した表情で玲香を見上げている。やっぱり余計なことをしているな、と自分の行動を早速悔いた。いつも行動してから思うけれど、もう少し後先考えて動けるようになりたい。

「行くよ」
「あ……うん」

呆然としている渚に背を向けて、玲香は先に教室を出る。
背後で、渚が椅子を動かす音がした。

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